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感染70年代後半フォークソング全盛の頃、全ては愛知県瀬戸市の小さな釣具店から始まった。普通の釣り具と共に小鳥のエサまで売っている、
ウナギの寝床のような狭い店の一番奥に、周囲と明らかに異なる空間があった。ルアータックルに混じって、グリップの後ろにリールシートのついた使い方の判
らない投げ竿やビニールの電線のような道糸が置いてあった。フライフィッシングと言う言葉は聞いたことがあったが、タックルを見たのはこれが初めてだった
し、フライキャスティングもどういうものか、まったく想像できなかった。 発病ルアーに比べ金がかかるのは容易に想像できたし、妙に敷居が高そうだ。金のない貧乏学生には無理だと、あきらめていたが興味は膨らんで
いく一方だった。半年ほどの潜伏期の後、ついに発病。生活費をくいつめての、悲しいタックルあさりと、フライの日々が始まる。私が初めてフライと出会った
釣具店は、現在は移転して立派なフライショップ「FLYイナガキ」となった。イナガキの代表さんには、キャスティングを含め色々なことを教えてもい、随分
お世話になった。驚異の低価格で、同業者から敵視されているようだが、私は大歓迎。大阪に住む今でも通販で時々利用している。 1977年にフライフィッシングで初めて釣ったアマゴここから私のフライフィッシングが始まった劇症期当時は近くにルアーフライの管理釣り場など無く、また車も持てない貧乏学生だった。釣りは主に春と夏の休みに実家に帰省したときに行っ
た。高知県四万十川の支流のネイティブなアマゴが相手だった。休みの間中、自転車であちこちの沢に入り釣りまくった。当時流行っていたバックパックを担ぎ
岐阜の山の中を1週間歩き回ったこともある。その後、社会人となり少しは裕福になったのだが、東京に引っ越してからは忙しく数年間ロッドを握らない時期が
あった。しかし治まったかに見えたフライ病が数年後に再発。加賀フィッシングエリアで、管理釣り場の魅力に目覚める。 フライを初めた頃の20代前半の私。この頃はまだフライベストも持っていないが、長髪バンダナはちまきで、結構気合いが入っていた。 キャスティングも結構きまっているでしょ! 慢性化−フライと共存する生活大阪に引っ越し、結婚、二人の娘が生まれ、マイホームも購入。さすがに独身のときのような釣り三昧は続けられない。毎週の釣行は月1回 になり、安・近・短の傾向がさらに強くなる。でもめげたりしない。この状況をアクティブに楽しむ余裕と工夫があれば、結構楽しいフライの世界が広るもん だ! 魚種や場所を選ばなければ、近場でもフライのフィールドは結構あるものだ。週末はそういった誰も知らないフィールドを開拓したり、フライロッド片手 に子供を連れて公園に遊びに行き、キャスティングの練習をしたりする。ふらりと思いついたように休日の午後からコイやボラを釣りに行ったりする、今のフラ イと共存する生活を、結構気に入っている。 半ズボンにスリッパのスタイルで、のんびりオイカワのフライフィッシングを楽しむ私。脇が空いているなんて細かいチェックは無しよ! |